今日は、少し悲しい話をする。
私は、裕福な家庭に生まれた。
両親は、私を甘やかした。
怒られた記憶は思い浮かばない。
自分の好きなものをリクエストすると、必ずそれが次の食事にでてくる。
おやつも、手作りドーナツ、クッキー、プリンなど、様々であった。
楽しい思いをさせてもらった。
だが、いざとなり、そのような恵まれた環境に依存し、社会に出るのが億劫になった
いざ、働く厳しさを知って、それだったらもう人生いらないとまで思い詰めた。
『よくも私を甘やかして育てやがって……』と思うこともあるが、親を恨んではいない。
それに、私に向上心があれば、たとえ外部から甘やかされても、自分で自分を律することが出来たはずだ。
……と、人には言うのだが実際のところ……
『父さん、母さん、あなた方が社会の厳しさを知っていたのならば、私に現実で生きていけるような教育をしてくれたら良かったじゃないか……?』
そう思わずにはいられない。
両親はよく、私におもちゃを、欲しがるだけ買ってくれた。
おもちゃ代だけで、7桁(100万)はいくのではないだろうか……?
私は、買ってもらったおもちゃを、壊れるまで遊ん……
……でいたのなら良かったのだが、実際には、すぐ飽きて見向きもしなくなるのがほとんどであった。
ただでさえ、歳を取るにつれ、おもちゃには見向きもしなくなってしまうというのに……
実家の裏庭に建つ倉庫には、今でも、そのような「悲しいおもちゃ」がたくさんある。
「もう遊ばないし、家の中にあっても邪魔だから……」
そのような寂しい理由で、雑然と詰め込んだのである。
子供に買ってもらえたおもちゃが、心ゆくまで遊ばれ、やがては壊れ、成長したご主人の涙、感謝と共に、その天寿を全うする……
おもちゃにとって、これ以上の幸福はないのではないだろうか?
しかし、私の場合はどうだろか。
まだ遊べる、息のあるおもちゃを、雑に保存し、生き地獄を味わわせている。
その中には、壊れた、部品が紛失したものもあるが、それは、劣悪な保管環境と、経年劣化によるものである。
私は、トイストーリーを見ることが出来ない。
自らを顧みて、咽び泣いてしまうからである。
私は今、倉庫のおもちゃ達に、片っ端から謝罪している。
まだ、息のあるものは、ピカピカに磨いて、汚れや埃を落としたり、電池を入れ直したりする。分解して、内部まで綺麗に洗うこともする。
また、生き返させられる範囲で、修理したり、部品を取り寄せることもある。
残念ながら、もう再起不能なおもちゃは、写真を撮った末、線香を挙げ、廃棄する。
「たかがおもちゃに、大袈裟な…」と思う方もいるだろう。
確かに、「おもちゃ」とは、たかが子供の遊び相手かもしれない。
しかし、知育玩具に限らず、おもちゃは、子供の成長に大きく関わっているのではないだろうか?
親や家族、友人、先生までではないにせよ、我々は、おもちゃに育てられて大きくなった、という側面があるのではないだろうか?
私にとって、おもちゃは父と母に近い存在なのである。
息を吹き返したおもちゃは、親戚の小さな子や、同級生の子供、もしくは欲しい人に譲っている。
父母に近い存在との別れは、当然寂しいし、悲しい。しかし、だからこそ、必要としている誰かの元で、おもちゃとしての天寿を全うしてほしい。
私のおもちゃは、今日もどこかで小さな子を教え導いていることだろう。
……
……
……
おもちゃ=両親……その通りかもしれません。
『モノには、心が宿る』と聞きます……
たまには、感謝の言葉を述べるのも良いかなと思います。