RETRO少年の懐古録

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【怪事件】ディアトロフ峠事件

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【怪事件】ディアトロフ峠事件

 

〇概要(Wikipediaより引用)

「ディアトロフ峠事件(ディアトロフとうげじけん)とは、1959年2月2日の夜、当時のソ連ウラル山脈北部で雪山登山をしていた男女9人が不可解な死を遂げたことで知られる事件である。

 

〇発生年月日:1959年2月2日夜間

〇現場:ホラート・シャフイル山(マンシ語で「死の山」)の東斜面。

〇被害者:ウラル科学技術学校(現在のウラル工科大学)の学生及び卒業生

 初めに発見された5人

 ・イーゴリ・アレクセーエヴィチ・ディアトロフ:一行のリーダー。19歳。

・ジナイダ・アレクセーエヴナ・コルモゴロワ :18歳。

・ルステム・ウラジーミロヴィチ・スロボディン:19歳。

・ユーリー(ゲオルギー)・アレクセーエヴィチ・クリヴォニシチェンコ:20歳。

・ユーリー・ニコラエヴィチ・ドロシェンコ:17歳。

後から発見された4人

・アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・コレヴァトフ:21歳

・リュドミラ・アレクサンドロヴナ・ドゥビニナ:17歳。

・ニコライ・ウラジーミロヴィチ・チボ=ブリニョーリ:20歳。

セミョーン(アレクサンドル)・アレクサンドロヴィチ・ゾロタリョフ:34歳。

唯一の生存者

(・ユーリー・エフィモヴィチ・ユーディン:1937年7月19日生まれ、2013年4月27日没。28日に持病のため離脱。)

 

〇経緯

・一行は、スヴェルドロフスク州内のウラル山脈北部においてスキーでのトレッキングを計画。

・一行の最終目的地は、事件発生現場から北に約10キロのオトルテン(ロシア語版)山。

・1月27日、一行はオトルテン山へ向け出発したが、その翌日、ユーリー・ユーディンが持病のリウマチの悪化から離脱、一行は9人になる。

・1月31日、未開の原生林を北西方向に進んできた一行はオトルテン山麓に到達した。

・2月1日、一行はオトルテン山へ続く渓谷へと分け入った。その際、西へ方向を誤り、ホラート・シャフイル山に登ってしまう。誤りに気づいた一行は、遮蔽物のない山の斜面にテントを張る。その理由は不明だが、生存者であるユーリー・ユーディンは、「ディアトロフは、すでに登った地点から降りることを嫌ったか、この際山の斜面でのキャンプ経験を積むことに決めたのではないか」と述べている。

 

〇捜索と発見

・2月12日、リーダーのディアトロフがスポーツクラブに電報を送ることになっていたが、来なかった。数日の遅れはつきものだったため、見逃された。

・2月20日になってようやく、親族の要請によって救助隊が送られる。その後、軍や警察まで送られ、大規模な捜索が行われた。

・2月26日、捜索隊がホラート・シャフイル山で、ひどく損傷して放棄されたテントを発見。

 

〇現場の異変

・テントは内側から切り裂かれ、雪に覆われていた。

・荷物はテントに置き去りにされていた。

・8つないし9つの靴下の足跡、片足だけ靴を履いた足跡、そして裸足の足跡が、近くの森(谷の反対側、1.5キロ北東)に向かって続いていたが、500メートル進んだところで雪に覆われて見えなくなった。

・森のはずれに生えているヒマラヤスギから、キャンプ地までの間に、5人の遺体を発見。・全員、低体温症で亡くなっていた。

・イーゴリ・アレクセーエヴィチ・ディアトロフ

・ジナイダ・アレクセーエヴナ・コルモゴロワ

・ルステム・ウラジーミロヴィチ・スロボディン:頭蓋骨に小さな亀裂。しかし死因とは関係なし。

・ユーリー(ゲオルギー)・アレクセーエヴィチ・クリヴォニシチェンコ

・ユーリー・ニコラエヴィチ・ドロシェンコ

 

・残り4人の遺体を探すのにはさらに2か月を要し、残りの遺体は、ヒマラヤスギの木からさらに森に75メートル分け入った先にある渓谷の中で、4メートルの深さの雪の下から発見。

 ・アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・コレヴァトフ:

・リュドミラ・アレクサンドロヴナ・ドゥビニナ:足に、クリヴォニシェンコのウールのズボンの切れ端が巻かれていた。肋骨を損傷。舌を失っていた。

・ニコライ・ウラジーミロヴィチ・チボ=ブリニョーリ:頭部に怪我。

セミョーン(アレクサンドル)・アレクサンドロヴィチ・ゾロタリョフ:ドゥビニナの人工毛皮のコートと帽子を被っていた。肋骨を損傷。

 

〇捜査

 ・先に発見された5人の死因はいずれも低体温症。

 ・後に発見された4人は、事情が違い、遺体は外傷を負っておらず、あたかも非常に高い圧力を加えられたかのようであった。

 

〇原因

・雪崩説(最有力):雪崩によるパニックによる事故。

・ただし、現場は、雪崩が発生するには傾斜が小さい。

・捜査当局がキャンプ地から続く足跡を見たことは、雪崩説を否定する根拠になる。

 

・「抗いがたい自然の力」

 ・何人かの犠牲者の衣服から、高い線量の放射能を検知

 ・遺体から、眼球や舌が欠如していた。

 

・人為的な何か

・1990年代になって情報が公開された際、いくつかの資料が失われていた。

 

〇謎

・一行のメンバーたちの葬式に出席していた者が、彼らの肌の色が「濃い茶褐色」になっていたと証言。←放射線障害。被ばく焼けの可能性がある。

・事件のあった夜、事件の発生地点から南に50キロ離れた場所にいた別のトレッキング客の一行が、ホラート・シャフイル山の方角に、奇妙なオレンジ色の光球を目撃したと報告。

・同様の「光球」は、1959年2月から3月にかけて、イヴデリとその隣接する地域で、それぞれ無関係の目撃者(気象・軍関係者を含む)によって目撃されている。これらは後に、R-7大陸間弾道ミサイルを発射した光であったことが証明されている。

・一部の報告は、軍がこの地域を密かに利用し、そのことの隠蔽に取り組んできたのではないかという憶測につながる大量の金属くずが、この地域に置かれていたことを示唆している。

・ディアトロフ一行の最後のキャンプ地は、R-7大陸間弾道ミサイルの試験発射が何度か行われたバイコヌール宇宙基地から、ソビエト連邦内の主要な核実験場に直接通じる道の途上に位置していた。

・テント内に残されたカメラのフィルムを現像した結果、彼らの姿を映したものが多数を占めたが、最後の1枚が判別不可能ながら「光体」のようなものであった。

 

・ドニー・アイカー著作『死に山』

・現場のドーム状かつ左右対称の地形はヘアピン渦(カルマン渦)現象と呼ばれる特異な気象現象が起こるには理想的な環境であり、繰り返し起こった竜巻による強風と低周波音に晒されて一行がパニックに陥りキャンプを飛び出し、凍死や転落死に至った可能性がある。

・事件現場の近くには核実験場があるが、核ミサイルによる被ばくにしては線量が低い。その程度の量なら大気汚染でもあり得ること(実験場から放射線が届いた可能性も)

・日焼けについても長時間雪原で日光に晒されていれば起こり得る。

・犠牲者の眼球や舌の喪失は、野生動物による捕食や、水に浸かっていたことによるバクテリアに起因するものだと推測。

 

 〇社説

 色々な要因が複雑に絡まり合って9人は命を落としたと思われる。しかし、自然現象だけで説明するには無理があったり、意図的にデータが隠されていたり、それらの要因の中に、人為的な策謀、及び陰謀が絡んでいることは否定できない。

 そもそも、誰の眼球が欠如していて、誰の服から高い放射線量が検出されたのか等の情報がはっきりしないことから、どこまで事実なのか分からない。

 死んだのか、殺されたのかは不明だが、9人の生命を悼む。